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1987年日本GP
日本に本格的にF1がやってきた記念すべき初年。
ホンダエンジンと日本人ドライバーとキャメルイエローのロータス。
そのチームメイトが、アイルトン・セナ。
色味は違えど、黄色いマシンに黄色いヘルメット。
「なんか目立たないかも」というのが感想。
それでも、画面の中で披露された彼の走りは、なんとなく不思議な、言葉にできない走りだった。
結果なんか覚えてない。
ただただ、不思議な印象だった。
1988年日本GP
初載冠の年。
スタートに失敗して中断からの追い上げを余儀なくされながらも、神がかり的な走りで優勝してしまったセナ。
「神様を見た」という言葉。
ごめんなさいだけど、当時、正直、私は「気持ち悪い」と思った。
けど。
後年(WOWOW開局してF1を放送し始めて)セナのレースを見る機会が増えるにつれ、なんとなくだけど理解できるような気がしたのも事実。
1989年日本GP
よく話題に出るシケインでのアラン・プロストとの接触。
確かに。
私の中でもそれ以外の記憶は殆どない。
それほど、あの接触とその後の押掛再スタートから失格裁定にいたるまで、あのシケインでの事件が大きすぎた。
この年はプロストがチャンピオン。
1990年日本GP
これもセナ・プロの象徴としてあげられるレースの一つ。
スタート直後の第一コーナーで絡みコースアウトするマクラーレンとフェラーリの二人。
砂煙の中のセナ2度目のチャンピオン。
ごめんなさい。
この後すぐテレビ消したのは当時小6だった私です。
レースを見たかったのに。面白くなかった。
1991年ブラジルGP
やっとたどり着いた母国初優勝。
終盤に6速固定となりながらの優勝。
ゴール後に漏れてきた無線にはアイルトンの歓喜の雄叫び。
圧倒的に少ない左回りのサーキットでトラブルを抱えつつ走りきり、立つこともできない姿。
それでも、表彰台で高々とブラジル国旗を掲げ、トロフィーを同じく高々と観衆に示した。
貧富の差が大きいブラジルのために自分が活躍して見せて、ウィニングランでも表彰台でもブラジル国旗を掲げて「僕はみんなと同じブラジル人なんだ」と、母国の人たちに力を与え続けたセナ。
このレースでちょっと興味深かったのは、セナがロータスのミカ・ハッキネンをラップしたあと、しばらくこの二人を映しつづけてたこと。
1993年途中からチームメイト同士になる二人だけど、当時はそんなこともわかるはずもない。
セナに注目していた結果なのだろうけど、なんとなく今は不思議。
涙の津川哲夫氏。
嬉しかったよ、私も一ファンとして(だけど私は前年鈴鹿の影響でこの年はベルガーを応援していたのも事実)。
このレース、リタイヤしたサントリー「BOSS」ナイジェル・マンセルが観客に手を振り、さらに通過していくアイルトンにも拍手をおくっていた。
ひょうきんものマンちゃん。
1991年モナコGP
大分でも地上波で放送されたなかで記憶に残っているわずかな海外レースの一つ。
(無限)ホンダのエンジンを積んだティレルが二番手スタートというモナコならではのレース。
優勝。
チェッカー後のウィニングランをなぜかレーシングスピードで走りきり、もう一度ホームストレートに戻ってきたセナ。
あれはなんだったんだろうか?
1991年日本GP(最後の載冠)
ファイナルラップの最終コーナー。
トップ快走中にもかかわらず突如スローダウンしたセナは、2位を走っていたベルガーに順位を譲ってフィニッシュ。
ベルガーが優勝してくれた。それも嬉しかった。
セナがチャンピオンになったのも嬉しかった。
セナがベルガーに譲った。それも嬉しかった。
1992年モナコGP(いっっっっっっっちばん好きなレース)
トップを快走するウィリアムズのちょっと太めのアドルフ・ヒトラーナイジェル・マンセル。
勝利を諦めかけていた最終盤、マンセル突如ピットイン(ホイールトラブルらしい)。
タイヤを交換してレースに復帰したときには前にセナ。
ここから、最高のバトルが始まる。
「F1といえばセナ」だった当時、当然中継はセナを中心になる。
使い古されたタイヤで滑りながら逃げるセナ。
新品のタイヤが暖まってきてペースの上がってきたマンセル。
テール・トゥ・ノーズ。
周回遅れがさらにそのバトルを盛り上げる。
トンネルからシケインへ。
ぬかせない。
三宅アナ(大のセナファン)ヒートアップ。
今宮純氏「50回記念ですね!」
最終ラップ最終コーナー。
押さえきって優勝のセナ。
フラフラになりながらもシャンパンを浴びせてセナを追いかけ、さいごは座り込むひげ親父マンセル。
50回記念。
1993年ヨーロッパGP
雨に翻弄されたレース。
予選4番手スタートのセナがオープニングラップでトップへ。
雨にもかかわらず、混乱するほかのチームを尻目(このレース何度タイヤ交換してたっけ)にトップを独走し、全車を周回遅れにしての優勝。
ウィニングラップでブラジル国旗をリクエストしながら、それを持って走り始めた途端落としてしまいマシンに引っかかるというおまけ付き。
非力なフォードHBエンジン(ベネトンのHB新シリーズよりも非力という)が幸いしたのもあるだろうけれど*1。
同年の日本GPでも雨の中逆転勝利を収めるなど、雨に強いセナがそこにいた。
1993年オーストラリアGP
アラン・プロスト現役最終レース。
コース上でもコース外でもいろいろあった二人が、表彰台の上でたたえ合い。
レース後のガレージで、互いに握手を交わした。
ロン・デニスに促されたのもあっただろうけれど、アイルトンは、その瞬間を待っていた。
1994年ブラジルGP
プロストが引退し、念願のウィリアムズへ移籍。
キャメルイエローの部分は白くそこへロスマンズの金色やらのライン。
前年までのハイテク装備をことごとく奪われ、レース中の給油が再開され、軽くそしてハイテクのない不安定なマシンでのレースとなるシーズン。
ポールからスタートしたものの、ピット作業でマイケルに抜かれ。
スピンアウトしてリタイヤ。
詰めかけた観衆が帰宅していく。
「F1といえばセナ」だった。
1994年パシフィックGP
日本での二つ目のレース第一戦。
ポールからスタート、ミカ・ハッキネンに押し出されグラベルへ。
そこへフェラーリのニコラ・ラリーニが飛び込みリタイヤ。
半ば呆然とするセナの映像は、その後の追悼アルバムなどでも使用されることになる。
1994年サンマリノGP
生涯最後のレース。
金曜日からアクシデント続きのグランプリ。
決勝日も、スタート直後にアクシデント。
セーフティ・カーの後ろで、黄色の回転灯を見ながら、何を思っていたのだろう。
そのセーフティ・カーの後方カメラが、スタートライン付近で、アイルトンだけがラインを変えずに通過した瞬間をとらえている。
カーボンコンポジットのパーツは破片になると途端に凶器と化す。
オイルや破片があるかもしれなかったそこを、彼だけはよけずに通過していた。
そして再スタート、その翌週。
ポールから一度もトップを譲らずに7周目のタンブレロで、そのキャリアを永遠に終えた。
1994年F1世界選手権第3戦サンマリノGP決勝レース7週目第2コーナー。
レース記録としてはDNF。
だけど。